イサカ(side B)

As you set out for Ithaka, hope the voyage is a long one, full of adventure, full of discovery.

Matthew Chirisman 他『Philosophy for Everyone』Routledge

Philosophy for Everyone

Philosophy for Everyone

  • 作者: Matthew Chrisman,Duncan Pritchard,Jane Suilin Lavelle,Michela Massimi,Alasdair Richmond,Dave Ward
  • 出版社/メーカー: Routledge
  • 発売日: 2013/09/04
  • メディア: ペーパーバック
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MOOCS でこの本と同じ内容のものをしていて,そっちも見た.とりあえず,この本の中から 4 つの章のまとめをしたい:2章;認識論,3章;心の哲学,4章;(メタ)倫理学,6章;科学哲学(科学の目的).

第2章:認識論

知識についての理論を認識論(epistemology)という.

知識には,いくつかの種類がある.命題的な知識(propositional knowledge)と,能力的な知識(ablility knowledge)など.ここで,命題とは,「地球は丸い」,「東京は日本の首都である」,「1たす1は2である」など,「何かが何かである」という主張である.命題的な知識とは,命題を知っていることをいう.能力的な知識とは,泳ぎ方を知っている,自転車の乗り方を知っているなどノウハウ(know-how)に関するものである.以下では,命題的な知識を扱う.

S さんが命題 p を知っているには,次の2つの条件が必要である(と多くの人が合意している).(i) p は真である.そして,(ii) S さんは p を信じている(つまり,p が真であると思っている).

古典的な知識論(classical account of knowledge)では,S さんが命題 p を知っているとは,(i)(ii)に加えて(iii) S さんが p を真であると信じる正当化された(justified)理由があることが必要十分条件であると考えられていた.

例:命題 p を「琵琶湖の面積は滋賀県の面積の 1/4 より小さい」としよう.このとき,S さんは p を知っているといったとき,S さんは,(i) p は真であって (ii) p を信じていることが必要である.しかし,これだけでは十分ではない.例えば,S さんが p を信じた理由がコインを投げて表が出たからという偶然では駄目で,例えば,S さんがいろいろと調べて注意深く検討した結果で信じるということが必要だろう((iii)に当たる).

古典的な知識論の(i)(ii)(iii)「正当化された真な信念」が命題的な知識の必要十分条件であるかに関して,Edmund Gettier (b. 1927) は,1963 年の非常に短い論文「Is Justified True Belief Knowledge?」で,そうではないことを示す強い議論を提出した.

止まった時計の例(Russell).命題 p を「いまは朝の 7 時である」としよう.(i) p は真であり,(ii) S さんは p を信じているとする.そして,(iii) S さんには,目覚まし時計が 7 時を指しているという,p を真であると信じる正当化された理由があるとする.このとき,古典的な知識論では,S さんが命題 p を知っているといえる.しかし,実際は,目覚まし時計は壊れていたとする.しかし,たまたま壊れたのが昨日の朝 7 時だったので,目覚まし時計が 7 時を指していたとする.このとき,p が真であったのは,偶然そうであったにすぎない.そうすると,S さんが命題 p を知っているとはいえないだろう.

羊の例(Chisholm).S さんは牧場に羊そっくりの動物を見たとする.それで,S さんは「牧場には羊がいる(命題 p)」と信じたととする.そして,命題 p は実際,正しい.というのも,牧場の丘の後ろの隠れたところに羊がいるからである.しかし,S さんがみた動物は羊に似た犬だったとする.このとき,S さんは「正当化された真な信念」を持っているが,p が真であったのは,偶然そうであったにすぎない.そうすると,S さんが命題 p を知っているとはいえないだろう.

Gettier の後,「S さんが命題 p を知っている」ことの必要十分条件を探す多くの試みがなされていた.しかし,(i)(ii)(iii) に付け加えるという方法で, 決定的なものはない.ただし,S さんと世界(world)との関わりに注目するとき,S さんと世界が関わっているのは (i) だけで,(ii)(iii) は関係ない.Gettier の議論は,「S さんが命題 p を知っている」に関して,S さんと世界(world)との関わりが古典的な知識論以上に必要であることを示している.

以下に Gettier の議論とその後についての良いまとめがある.
http://www.iep.utm.edu/gettier/

以下に感想を.

Gettier の議論は面白いと思うけど,「S さんが命題 p を知っている」ことの必要十分条件を与えることはそもそも可能なのかなぁ.「S さんが命題 p を知っている」ということを考える前提条件に,合理的な人間像が想定されている気がする.でも,実際には,記憶などはかなり騙されやすいものであるし.人間の行動はしばしば不合理ですよね.そうすると,合理的な(あるいは理想的な)人間にとって,「S さんが命題 p を知っている」ことの必要十分条件を与えられるかを考えて,その後で,理想化された人間像と実際の人間像の違いを考慮して,「S さんが命題 p を知っている」ことの実際の意味を与えていくというようになるのだろうか.

Gettier の議論には,たまたまというか偶然性の役割が入っていると思う.そうすると,合理的な人間像のもとでも,確率論を入れて考えるのがいいのだろうか.ベイズ的認識論も非常に進んでいるみたい.

第3章:心の哲学 (2014年2月13日に追加)

ルネ・デカルト(René Descartes, 1596-1650)は,精神(心)と物質(身体)は全く異なるものであるとする心身二元論substance dualism, cartesian dualism)をとなえた.デカルトによれば,物質とは空間的延長をもつもの(res extensa)であり,心は非物質的なものからなる.

デカルト心身二元論には,いくつかの問題が指摘されている.その一つは,因果に関わるもので,精神と身体が全く異なるならば,どうやって精神は身体と接触しうるのかという問題である.すでに1643年に,ドイツのファルツ選帝侯の王女エリーザベト(Princess Elisabeth of Bohemia)が,この疑問をデカルトへの書簡の中で投げかけた.デカルトは納得のいく解決を与えることはできなかった.

心身二元論の構図を克服する方法として,物理主義(Physicalism, Meterialism)がある.これは,心と身体はともに物理的なものからなるという物質一元論であり,心の哲学の現在の主流的な見方でもある. 物理主義は,さらに,(a) 同一説(Identity Theory)(b) 機能主義(Functrialism)(c) 論理的行動主義(Logical Behaviourism)などに分かれる.ここでは,(a), (b) についてもう少し見る.

(a) 同一説(Identity Theory)では,心的状態を物理状態と同一視する.哲学者がよく使う例で説明すると,「痛みはC線維(末梢神経)の発火と同一である」という見方である.心的状態を物理状態に還元しているので,同一説は還元主義(reductionism)でもある.

同一説は,token同一説と,type同一説に分かれる.token同一説では,ある日のある時間の心的状態は,そのときの物理状態と同一であるとする.一方で,type同一説では,心的状態のtypes(例えば幸福感)は物理現象のtypes(例えば,脳内のある化学反応)に還元できるとする.type同一説は,科学的に検証できる可能性がある(例えば,セロトニンが分泌されれば幸福感を感じるなど).

(b) ヒラリー・パトナム(Hilary Putmun)は,1967年にtype同一説に疑問を投げかけた.人においては.脳内のある化学反応が痛いという心的状態と同一としよう.しかし,例えば,タコ(あるいは異星人)も痛いという心的状態であることはありえると思われるが,その痛いという心的状態は,タコ(あるいは異星人)では別の化学反応からくるかもしれない.従って,ある心的状態に対応する物理状態は,いくつもの実現可能性(multiple realizability)が考えられる.

これから, 機能主義(Functrialism)に至る.機能主義は,心的状態を,それが何から構成されているかではなく,どういうことをしているかで同一視するべきであると主張する.心的状態を椅子に例えると,椅子が何から作られているかではなく,座るためのものであると見る.

心的状態はその機能で同一視すべきという機能主義の立場からは,心的状態を物理的に作り出せる可能性があることになる.それでは,心的状態をコンピュータで作り出すことはできるのだろうか.

アラン・チューリング(Alain Turing)は 1950 年に模倣ゲームを提案した.質問者は,隔離された部屋の人間 X とコンピューター Y に質問をする.X と Y はその質問に答える.もし,Y が質問者に人間であると思い込ませることができれば,コンピューターは(ある(弱い)意味で)知性をもっているといってもいいだろう.

最後に,機能主義への反論として(およびチューリングテストの不十分性を主張したものととして),ジョン・サール(John Searle)によるの思考実験としての中国語の部屋(1980年)を述べる.

あなたは、たくさんの本のある小部屋にいる.ただし,本にはあなたの知らない記号が羅列して書かれている.小部屋にはスロットがあり,そこに時折,紙が差し入れられる.その紙にもあなたの知らない記号が羅列して書かれているが,あなたは英語で書かれた手引書(code book)を持っていて,このパターンの紙が差し入れらたときは,どの本のどのページを見ればよいかが書いてある.そこで,あなたは本のあるページの記号を写しとり,スロットから差し出す.ここで,実は,あなたの知らない記号は中国語であり,スロットに入ってくる紙は中国語で書かれた質問で,あなたが差し出した紙は,中国語でその質問の答えが書かれているものであった.部屋の外から見れば,この小部屋には中国語を理解している人がいると思うだろう.しかし,あなたは中国語がわからず,作業の意味を全く理解せずに,ただ作業を繰り返しているにすぎない.

ここで,あなたをコンピュータに置き換える.何か(aboutness)についての意味を理解していないものは,心あるものとは考えられないのではないかということを,上の思考実験は主張している.言い換えれば,コンピューターが記号の統語(syntax)は扱えても,記号の意味(semantics)を理解していないのであれば,コンピューターは心あるものとは考えられないのではないかという疑問を投げかけている.

第4章:メタ倫理学 (2014年2月23日に追加)

道徳判断はどんな基準で行われるのか? ここでは,(1)客観説(objectivism),(2)相対説(relativism),(3)情緒説(emotivism)の3つに分けて説明する.

まず準備をする.「鉛は鉄よりも重い」や「いついつのどこどこの天気は晴れである」というような判断を経験判断(empirical judgement)という.一方,「一夫多妻制は道徳的に疑わしい」や「女子割礼は道徳的に間違っている」などの判断を道徳判断(moral judgement)という.次の問いを考える.
(a)道徳判断は真偽を問うことができるのか.それとも,道徳判断は話者の感情を表明しているだけなのか.
(b)道徳判断が真偽を問うことができるのなら,その根拠は何か.道徳判断が真ならば,それは客観的に真なのか.

客観説では,道徳判断は真偽を問うことができると考える.さらに,その真偽の根拠は,経験判断と同じように,話者や話者の属する集団とは独立であり,客観的な道徳事実であると考える.上の問いについては,(a)は yes であり,(b)は客観的に真であると考える.

相対説では,道徳判断は真偽を問うことができると考える.しかし,その真偽の根拠は,個人または個人の属する社会集団,あるいは時代や文化に依存すると考える.(「車は左側/右側を走る」という道路法と似ている.)個人ごとに異なるという見方を主観説(subjectivism),文化ごとに異なるという見方を文化相対説(cultural relativism)という.上の問いについては,(a)は yes であり,(b)は客観的な基準はないと考える.

情緒説では,道徳判断は話者の感情を表明しているだけであると考える.(「納豆は美味しい」という食べ物の好みと似ている.)上の問いについては,(a)は no であり,(b)は考えない.

それぞれの説に対して,いくつかの疑問を投げかけることができる.客観説に対しては,科学的な命題ならば,その真偽を確かめるための実験と検証という科学的手法があるが,道徳判断の客観性を科学のように確かめる手法はないように思われる.相対説に対しては,道徳の進歩(moral progress)を説明できないように思われる(例えば,奴隷制への見方の変化など).情緒説に対しては,道徳判断を感情だけでなく理性を用いることもあるように思われる.このような疑問に対して,さまざまな答え方があり,議論が深まっていく.

感想:道徳判断は,こういう一般論よりもむしろ,個別の判断(尊厳死,エネルギー問題など)について考えることで,一般論についてもよく分かるような気がする.

文化相対主義については,以前にどこかで読んだのだけど,国際機関に働いている人が,アフリカにおける女子割礼の習慣を文化相対主義と片付けていいのか,と疑問を投げかけていた.

あと,「それは見解の違いだね」という言い方をする人がいたら,その人は,相対説に立ってというよりは,単に議論がめんどうだから早く終わらせたいと思ってそう言っていることが多い気がする.随分前に,井上達夫共生の作法―会話としての正義』という本を買った.ほとんど買っただけで,最初の方しか読めなかったけど,相対主義について反対していたように思う.


共生の作法―会話としての正義 (現代自由学芸叢書)

共生の作法―会話としての正義 (現代自由学芸叢書)